「エンディングセミナー」
時どき講演を頼まれます。もちろんいつも喜んで引き受けます、ほとんど二つ返事で。なぜなら、どうしてもお話したいからです。もっと本質的なことを。
■「今までと同じあなた」はいつまでもいない
と、いきなり難しい言い方をしてしまいましたが、私が聴いてくださっている人に真っ先に語りかけたいのは、「エンディングを考えるということは“今までと同じ私”があしたもいる、ということはあり得ない、ということを自覚することなんです」ということ。
ちょっと言いにくいですよね、こういう話。
ましてお年を召した人に対して。
今までは各地の生涯学習交流館などでお話することが多かったものですから、聴いて下さる方はたいてい私より年上です。私は65歳なんですが。
でもまあ、人間65歳を過ぎればいつ何があっても不思議ではない。
その意味では「ここにいる人はみんなお仲間だ」、と思って言いたいことを言ってしまいます。
すると、みなさん平気で笑うんですよ。うなずいてくれる。
そういう意味では私は「人間」を頭の中で考えていて、いつも観念上の人間の運命は苛酷で、歳をとるということはどんどん不自由になること、しかも元に戻ることはなく戦いは絶望的だ、なんて考える人間ですけれども、現実の聴き手、いまそこにいる女性たち(8割以上が女性です)はとても前向きで明るくて、講義するこちらがたいていいつも何か気づかされ、救われています。
だから私、エンディングセミナーが好きなんです。
■実に盛りだくさんのエンディングノート
さて「結末」を意味する「エンディング」という言葉、いつから人の死、人生の終末を意味するようになったのでしょう、よくわかりません。「エンディングノート」なんて言ううまいネーミングを編み出す人がいて、一時期はやりのようになりました。和製英語だけれど、上手にニュアンスを伝えています。
ただし、ゴッチャゴチャです、その中身は!
乱暴ですが私はそう思うんですよ。
エンディングノートの典型的な中身―――
- まず、身仕舞いのこと(捨てる。「断捨離」も流行語になりました)
- アッ、そのまえに「自分史」「家族への思い」がありましたね。
- そして「いざというときのために」家族や周りの人に迷惑をかけないよう各種のメモ
- 家族、親せき、友達などの連絡先情報
- この後突然、わが身のことになって病歴や薬の記録
- 病気になったらどのような治療を受けたいか、また受けたくないか
- その延長のように突然「延命治療拒否」つまり“尊厳死宣言書”なども出てきます
- さらに介護の話
- どんな施設が望みか
- 少し言葉をやさしくしながら「判断力がなくなったときの日常の家事や金銭管理の希望」
- そして最後は死後の話に飛んで、葬儀や戒名の希望、納骨・お墓の選択の話まで
以上、実に雑多。
私は行政書士なのでさらに「遺言・相続」の話をすることにしています。
1~4までは「身仕舞い」の話。
5~7は病気、続いて8、9、10で介護される話になって最後は「埋葬」。
■エンディングノートだけでは不十分だ
エンディングノートを書くというのは<“今までと同じ私”があしたにはいないかもしれない>ということが前提になっていなければならない。その観点から上の項目を見ると、確かに“衰えていく私”を前提にしているように見えます。そして「やがて死ぬ」ことも当たり前になっていて、一足飛びに死んだ後のことまで心配している。
見事な覚悟、のように見えますが、ほんとうでしょうか。
エンディングノートは自分を客観視しなければ書けません。
誰しも、やがて死ぬことは100%確実なのだから「覚悟」を決める。それが「客観視」の意味ですが、多くの人はそこは見ないでいきなり「病気」「介護」「死後」に飛んでしまう。
幸せに老いていくには技術が必要です。エンディングノートを書くというのもそのひとつ。できるだけ人様に迷惑をかけない、余計な心配をさせない、そのために先回りをして「こうなったときはこのようにしてほしい」と書いておくんです。
覚悟もせず、老いていく自分の近未来を直視せずに<老いていく技術>を磨くというのは無理です。
だから多くの人が、ノートに書いてしまうとそれで終わり、と思ってしまう。問題が解決したようなすっきりした気分になってしまう。でも、ノートに書いても何も解決しませんよ。書くために前に進み、自分で確かめた人だけが“ひとまずの解決”を得るんです。
何番目の問題を切り取っても言えると思いますが、例えば「9」の施設の話。
老人介護施設はざっと種類を挙げるだけで、こんなにあります!
民間施設もあれば公共が運営しているところもある。費用も千差万別。施設の良否も違うし職員さんの態度も違う。同じ種類だから同じというわけではない。どの施設にも“個性”があるのです。しかも、こういった施設は一度入れば“ついの住みか”になる可能性が高い。でもノートに自分の希望を書くために、「これは」と思った施設に自分で足を運ぶ人は少ない。
「6」病気になったら、も同じ。ノートの紙切れ1枚で医師はあなたの希望をすんなりきいてくれるでしょうか。だって、あなたの生き死にがかかっているんですよ。人様の命を預かる医者が、「ノートに書いてあったから、じゃあ治療しなくていいんだね」などとは絶対に言わない。もしそういう“特異な(常とは違う)”治療方針をあなたは「どうしても通したい」というなら、家族なり友人なり、自分に代わって強く希望を主張してくれる人に自分の思いを(相手に伝わるまで、それこそ)思いを込めて話しておかなければなりません。
「10」端的に言えば<ボケてしまった私>の話です。65歳を過ぎれば4人に1人、80歳を越えれば3人に1人は認知症を抱えます。同居している人がいれば大きな負担をかける。独りでいる場合は、事態はもっと深刻になります。決して、聴いて終わりにする話ではないのです。
■ノート1つであなたの“人生始末”にはなりません
あなたの人生なのだから、机の引き出しにしまった1編のノートで片付きはしない。
たとえ「認知症」にならなくても、近隣社会が消えて1人ひとりの関係性が希薄になっている
現在の社会は、社会全体で弱い者を守るという「技術」も「仕組み」もひ弱です。
あなたの所にも電話やファクス、ダイレクトメールが飛び込んできませんか?
現在のビジネスは明確に、お年寄りたちを「すぐ買ってくれるカモ」だと思っています。まともな会社がそうだから、詐欺師やヒツジの革を着た暴力団員たちはあなたを引っかけようと狙います。
「だまされても泣き寝入りしてくれるおいしい現金支払機」にならないでください。
さらに言えば、今の社会は老人の独り暮らしをつくりやすい。
エンディングの話、実を言えば、一緒に暮らしている人がいるのなら適当に聞き流してもらってもいいんです。同居している誰かがなんとかしてくれるでしょう。しかしあなたがいずれ「独り」になる人なら、目の色を変えて真剣に聴いておくべきです。あなたに代わって誰も何もしてくれない。というより、あなたに異変があったときに誰があなたに気づいてくれるというのでしょう。
私はこの5年間で、3人の孤独死を知ることになりました。
大都会とも言えない私の住む町、静岡市で。
おどかすみたいで申し訳ありません。
どうすればいいのか。
実は、解決の手立てはあります! ご安心を。
私のエンディングセミナーはそこから始まる、と言ってもいいでしょう。
聴いたら「なるほど」と聞いて終わりにしないで、1つでも2つでも、自分の足で確かめてみてほしいんです。わからなければ専門家にお聞きください。たいてい無料で、親切に教えてくれます。
エンディングセミナーは、聴くためにあるのではなく、<何を今すぐやっておかなければならないか>を気づくためにあるのです。
◎遺言・家族信託・後見制度・認知症対策・延命と尊厳死・終活・死後の心配についてメールで無料相談を行っています。
[btn class=”lightning bg”]メールで無料相談[/btn]
<ジャーナリスト石川秀樹(相続指南処、行政書士)>
■■ 遺言相続・家族信託.net ■■