遺言で相続人の1人を外すだって⁈
遺留分のことを知らない素人の大暴走だ。
先日、以下のような質問メールをもらって力が抜けた。
■相続から1人を外す遺言⁈
「4人の子がいるが、相続させたくない子が1人いる場合の一番簡単な文章を教えてもらいたい」
住所なし、電話番号なし、生年月日の記述なし。
遺言を書こうとしている人か、書いてもらいたい人なのかさえ、わからない。
どちらにしろこの人に、遺言という「大事な文章」のことを教えたくない、と思った。
遺言書は人の一生を左右する文書である。
単なる財産仕分けにとどまらない。
ひとり外された人は、(親の気持ちをあれこれ想像して)一生引きずるかもしれない。
それなのにメールの主は言うのだ。
「一番簡単な文章を教えてもらいたい」と。
「お前には何もやらない」と書きたいのだろうか。
それとも1人のきょうだいを相続から外して「自分だけは優遇される遺言」を簡単に、ちゃちゃと書いてほしいのか。
どちらにしろ、心根が暗い。
文章の重さは、あなたの心の重さである。
それを「一番簡単に」書こうとするあなたの心は、悲しいくらい軽い。
人を切り捨てるなら、もっと懇切に、そのわけまで踏み込んで書け、と言いたい。
一切省略して、結果だけ、結論だけを投げつける遺言なんて、あってはならない。
こういううすら寒くなるような感情に、私は一片でも加担したくない。
この人は大事なことを質問するのに、自分の顔を一切見せない。
失礼千万! こういう輩に道理を説いても仕方がない………
回答を断り、知らぬ顔をしよう。そう思ったのだが、気が変わった。
“反面教師”として見たら、こんなに恰好な例はない。
ちょうどよい機会だ、「なぜこんな遺言を書いてはいけない」と思うのか、私の思いを伝えたい。
■遺言でも「やりたい放題」は通らない
遺言はそもそも、どんなに心を砕いて書いても、必ずや誰かを傷つけるものです。
そういうものなんですよ、みなさん!
自分の財産の死後の仕分けについて言及する以上、あげたい人に思いきりあげたいだろう。
それは自由であり、認められてもいる。
財産の仕分けは遺言書が優先、これは民法も認めている。
財産の持ち主の思いが大事にされるのは、当然だ。
しかし、なんでもやりたい放題でいいのか⁈
日本の民法は「やりたい放題でいい」とは言っていない。
まず第900条でこんな大きなお世話な規定を示す。
同順位の相続人が数人あるときは、その相続分は、次の各号の定めるところによる。
一 子及び配偶者が相続人であるときは、子の相続分及び配偶者の相続分は、各二分の一とする。
二 配偶者及び直系尊属が相続人であるときは、配偶者の相続分は、三分の二とし、直系尊属の相続分は、三分の一とする。
三 配偶者及び兄弟姉妹が相続人であるときは、配偶者の相続分は、四分の三とし、兄弟姉妹の相続分は、四分の一とする。
四 子、直系尊属又は兄弟姉妹が数人あるときは、各自の相続分は、相等しいものとする。ただし、嫡出でない子の相続分は、嫡出である子の相続分の二分の一とし、父母の一方のみを同じくする兄弟姉妹の相続分は、父母の双方を同じくする兄弟姉妹の相続分の二分の一とする。
ご存知の、法定相続分というやつだ。
「法定相続分」は”任意規定”だから、必ずこのように分けなければならないということではない。
もらう側から見れば、「もらえる権利」と言えるほど強い規定ではないということ。
それでも戦後70数年、この規定が”鎮座”し続けてきた結果、最近ではほぼ権利であるかのように考える人の方が多くなった。
同じ順位にいる相続人には”平等な権利”があると思っているのだ。
「権利と思う」のは重要なことで、相続人は《これくらいはもらえるはず》という一定の「期待」を抱き、それは尊重される。
■不公平を調整する「遺留分」
遺言書はその期待値を壊すためにある。
とてもきつい言い方だが、真実だ。
相続させる側が法定相続分で分けられることに異存がないなら、遺言など書く必要がない。
《それでは困る》と思うから、遺言を書くわけだ。
すると、期待以上にもらえる人が出てくる一方、「やられたッ!」とほぞをかむ人も出てくる。
だから民法は、やられてしまった人のことまで配慮して、こんな条項を入れた。
兄弟姉妹以外の相続人は、遺留分として、次の各号に掲げる区分に応じてそれぞれ当該各号に定める割合に相当する額を受ける。
一 直系尊属のみが相続人である場合 被相続人の財産の三分の一
二 前号に掲げる場合以外の場合 被相続人の財産の二分の一
「遺留分」という名で、法定相続分のおおむね半分は「もらえますよ」とお墨付きを与えたわけだ。
「法定相続分」は「分ける目安」とされ必ずしも「権利」ではないが、「遺留分」はれっきとした「権利」だ。
(この点が後の話で重要な論点になるので、いましばらく難しい話におつきあい願いたい)
「遺留分」に先立つ民法第964条が注目点だ(黄色の部分)。
この通り、民法は「あなたの財産は遺言で、全部でも一部でも特定の人にあげていいですよ。ただし遺留分はおかしてはダメです」と言っている。つまり「遺留分というのは、権利である」といっているのだ。
遺言を書いても、法定相続人の遺留分はおかせない‼
ただし、そのように書いてもただちに遺言が「無効」にはならない。
ここが「遺留分」法理のわけのわからないところで、遺留分は「私には遺留分がある」と主張しなければ遺言に待ったをかけられないという方式だ。
まるで、権利だけどもあまり使わないでね、といっているような歯切れの悪さ。
とはいうものの、「遺留分を寄こせ」と主張すれば(これを「遺留分減殺請求」と言う)その主張は通る。
という意味では「遺留分」はやはり相続人の権利と言っていいだろう。
よく言えば「遺留分」は、遺言による極端な不公平を調整するための機能である。
しかし、好きなように分けたい遺言者にとっては「所有者の権利を捻じ曲げる天下の悪法」でもある。
■遺言のこと、知らなさすぎる!
遺留分はとても厄介だ。
でもふつうの人は、そんなことご存じない。
だからメールの主も気軽に、1人だけ相続から外したい場合の一番簡単な文章を教えて、と書いたのだろう。
ここまで遺留分のことを読んだ人にはおわかりだと思う。
1人の相続人の権利を全部奪う遺言など、書けっこないことが。
「(相続人の1人を名指しして)お前には何も遺さない」と書きたければ書いてみるがいい。
その結果は遺言を読む相続人の受け取り方次第だ。
落胆してあきらめる人もいるだろうし、敢然と遺留分減殺請求をする人もいるだろう。
いずれにしてもその遺言は、相続人の権利に大きな石を投げつけている。
たいていは、死して家族紛争の火種に油を注いだような結果に終わる。
みんな「遺言」のことを知らなさすぎる!
1行1行が大きな財産の行方を左右する重大な文書なのに、まことに不用意だ。
自分の財産だから、自分のほしいままにできると思っている……。
そうだ、これも言っておかなければならない。
《亡くなった人の財産は誰のものですか?》
■死んだら財産はあなたのものではない
正確にこの問いに答えられる人は、まずいない。
答えはこうだ───
相続は、死亡によって開始する。
4つの条文をわかりやすくまとめると、以下のように要約できる
《あなたが亡くなった瞬間、あなたの財産はあなたのものではなくなり、相続人の相続分に従って相続人の共有財産になります》
悲しいかな、あなたがどんな思いで財産を築いて来ようと、あなたの配偶者と共に努力を重ねてきたとしても、そういうこととは関係なく物理的にあなたの財産は相続人に共有されてしまう。
だから今回のメールの主のように「(誰かを)相続人から外したい」と思っても、通常それは(いったん相続人に渡った)財産を奪うことであり、遺言という法律が認めた方法を用いても「全部は奪えませんよ。半分は相続人のものです」ということになる。
道理のない遺言を書いてはダメだ、というのはそういう民法の法理に根差して言っていることなのだ。
■遺言を成功させるにはコツがある
遺言を成功させるコツ、というとおかしな言い方に聞こえると思うが、
遺言はひとことで言えば、メールの主が考えているほど簡単なものじゃあない。
考えてみてほしい───
- 遺言は財産分割において、相続人の誰かを不利にするもの
- その相続人は、一定の財産をもらえると法律(民法)が保証している
- 民法はそれを念押しするように「遺留分」を権利として認めた
- 遺言によってもその権利を侵食してはならない、と民法はさらにダメ押し
こういう条件のもとに、みなさんは遺言を書くのですよ。
わざわざ”法律違反”をして、自分の好き勝手に書きたいですか?
「遺留分」は相続人の権利なんです。
それを無視してあなたが遺言を書けば………
運が良ければ、相続人が「親が書いた遺言だから」と尊重してくれ、遺留分を侵されても我慢して遺留分減殺請求などしないかもしれない。
あるいは、しっかり子を”教育”していれば「私の言うとおりにせよ」が通じるかもしれない。
しかし「子」といっても今日日の相続は”老老相続”、子が50代、60代であるのが普通だ。
社会的な経験を積み、酸いも甘いも苦いもかみ分けてきた人生のベテラン、そのベテランが「こうあるだろう」と予測している相続への期待を、あなたの一存でひっくり返すことができるだろうか?
できたとしても、それは得策なのかどうか。
■そんなに欲をかきなさんな、がコツ!
そんなに欲をかきなさんな、と言いたい。
自分の財産だから、分け方は私が全部決める。
ブッ、ブー‼
それは愚策だ。理由は今まで書いてきた通り。
相続人の1人を完全に外したいなんて、思わないでほしい。
[aside type=”warning”] 民法には「廃除」という規定がある。
民法第892条「被相続人に対して虐待をし、若しくはこれに重大な侮辱を加えたとき、又は推定相続人にその他の著しい非行があったときは、被相続人は、その推定相続人の廃除を家庭裁判所に請求することができる」。こんな条文があるからと言って、今日日やすやすと廃除はできない。家裁はめったにこれを認めない。遺留分確保は権利だからだ。 [/aside]
裁判所でさえ認めない話を、さらさらと遺言に書けば相続から外せる、と思うのはほとんど夢想である。
欲をかきなさんな!
高齢になってまでなぜひとりの「子」を許せないのか?
気に入らない「子」でも半分は遺してやるという情がわかないものか?
「子」だけが本当に悪魔のように悪いのか?
これ以上は言わない(あなたにも言い分があるだろう)。
一方、相続される側が遺言を書かせたい場合。
1人を外したいと思ったり、1人占めにしたいと思う気持ちについて。
それこそ、欲をかくな!である。
何の権利があって、親が築いた財産をわがものにしたいと思うのか。
なんの対価を払って「権利だ」と主張するのか。
ただ強欲なだけだ。みっともない。
まことにさもしい。
全部をむさぼらず、多くを残せばいいではないか。
しょせんは親が作った、あなたにとっては不労所得である。
何もせずに勝手に転がり込んでくる財産。
ありがたがって押し頂いていいが、権利だなどと主張するな!
■高齢になってから遺言を書き換えるな!
以上は私の感情論。かなり言いすぎている。
だからどのように受け止めてもらっても、無視してくれても構わない。
しかし相続の実務家として、次に書くことだけはぜひ参考にしてもらいたい。
《高齢になってから遺言を書き換えるな》という問題である。
遺言適齢期は50代、60代。
よほど遅くなっても70代では書き終わっていてほしい。
高齢になって遺言を書くと「認知症」が疑われることがある。
それも理由のひとつだが、本日の論点はそこではない。
50代-70代までの遺言は、よく考えられた立派な遺言書が多い。
バランスの取れた公平な遺言書だ。
こういう遺言なら、書いたために混乱、などということは起きにくい。
しかしせっかく書いた遺言を、80代、90代になって書き換える人が少なくない。
なぜ書き換えるのか。
(遺言者の)そばにいる者の影響によってである。
知り合いの公証人はこうつぶやく。
「家族から『父が遺言を書き換えたいと言っている』などという電話が入ると、またかと思いますよ。取り消し依頼も多い」
守秘義務があるので、それ以上は語らないが……。
自分の経験に照らせば、公証人が言外に言いたかったことはおおよそ想像がつく。
私が聞くのは主に、”被害者”側からの訴えである。
後の祭りの話もあれば、なまなましい今行われつつある”遺言工作”もある。
年を取った親の元に、いつの間にか親族が張り付く。
そして耳打ち。「遺言を書き換えた方がいい」と。
年を取れば誰しも、身近に世話を焼いてくれる人がいた方がいい。
その心理がある限り、身近な者の言動はゼッタイ的だ。
言うことをきかなければ何をされるかわからない、という恐怖もある。
自分では書き換える必要がないと思っていても”圧力”に抗しきれない。
■「遺留分」は使い甲斐のある武器だ
遺言書き換えの話など、ほとんど普遍的な話で(つまり昔からよくある話)「今さら」に聞こえるが、今回のメールの主も「もらう側」で質問していたとすると、「親に遺言を書き換えさせる」にピタリとはまる。
(親に書かせるつもりだから)「一番簡単な文章」でよかったんだな。
こういう人に「むさぼるな」「他の相続人にも残せ」と言っても効力はなさそうだ。
しかし普遍的に行われていることがわかっている「悪」に対して、高齢者や家族はなんと無頓着、無防備なことだろう。
こういう「悪」と戦う方法はいくらでもあるのに。
1つの方法は、やっかいな「遺留分」を使うという発想だ。
遺留分は単に財産請求権があるというだけではない。
性質が実にいやらしいのだ(遺言する側からすると「たちが悪い」)。
そのたちの悪さは「共有」という性質から来ている。
相続財産はすでに相続人による共有財産である(遺産分割以前は必ずこの状態!)。
遺留分を盾に”遺言不当書き換え”の悪と戦うには、この「共有」という性質を思いきり使う。
減殺請求をした途端に、理論上、分割された財産にすべて「共有」の網がかぶせられることになる。
共有財産は、共有者全員の一致がなければ処分できない。
このやっかいな性質をどう使うかは、(具体的には)依頼する弁護士の戦術眼次第だ。
お金で決着するのが普通だが、腹の虫がおさまらなければほかの戦い方もある。
(私の業務以外なので、これ以上は踏み込まない)
■遺言より家族信託を使え!
不当な遺言書き換えに対抗する策としてはもうひとつ、「家族信託」がある。
民法を法的根拠とする「遺言」は、本人の死後にしか効力を発揮しない。
ゆえに遺言者は、自ら遺した遺言の効果を見届けることができない。
もうひとつの遺言の弱点は、書き換えが自由であることだ。
これは「使いやすい」一方、上に見てきたように、財産をもらう側としてはきわめて不安定・不確実な”約束”ということになる。
そそのかされ、あるいは脅されるようにして書き換えさせられたり、(自筆の場合)改ざんされる恐れもある。
書き換え自由の柔軟さが現在では、遺言者自身を危険にさらす可能性すらあるのだ。
こんなことは立法当事者でさえ予想もできなかった事態に違いない。
では遺言に代わる有用な対策法はあるのだろうか?
もちろんある。信託するという方法だ。
家族信託は「認知症対策」として成年後見制度などよりはるかに使い勝手のよい仕組みだ。
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家族信託は財産管理法の一種であり多くの機能を持っているが、今回は生きているうちに承継財産を確定させるという機能を使う。
- 委託者(財産を預ける人)=財産の持ち主本人
- 受託者(財産を受け取り管理・処分する人)=相続人の1人
- 受益者(預けた財産から得を得る人)=委託者本人
- 残余財産受益者=相続人全員
- 信託財産=本人の主だった財産
- 信託目的=委託者の財産を守り、相続人たちに的確に承継させる
難しい説明は省くが、以上のような登場人物と信託財産を契約書に書き込み、信託の目的に従って財産を静かに管理していく。
委託者が途中で認知症を深刻化させても管理権は受託者に移っているので、何の問題もない。
そして委託者が亡くなると、契約書に書き込んだ通りに残った財産を相続人たちに承継していく。
この契約により、委託者の財産が死亡後に誰のものになるのか、委託者が生きているうちに確定させることが可能になる。
遺言は単独行為なので遺言者はいつでも書き換えができたが、信託は契約書なので契約変更には委託者と受託者の合意が必要である。
また信託では受益者の利益を損なうことはご法度なので、委託者・受託者が合意しても受益者が「よし」と言わなければ契約内容は換えることができない。きわめて頑丈な仕組みと言えるだろう。
■相手を思いやる心を忘れずに
現代は、財産を多く持っても少なく持っても、その承継には苦労が伴う。
昔のような家督相続は行われないから、長男が継げば相続完了となるほど簡単ではない。
こういう時代に遺言は、第一当事者の希望の表明だから大きな影響力を持つ。
しかしその効果は、何でも言うことをきかせられるほど大きくはない。
民法には「遺留分」の規定があり、尊重せざるを得ない。
たとえ遺留分に抵触していなくても、遺言の言葉一つ、遺産の割り振り一つに相続人は神経をとがらせるから、書く人は細心の心配りが必要である。
どうか遺言を甘く見ないでもらいたい。
自分の思いも相続人があってこそだ。
家族が自分の死後、遺した財産のためにばらばらになるようではあなたの人生は成功だったとは言えない。
遺言をじょうずに使ってほしい。
ときには遺言ではなく信託の手法も検討を。
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静岡県遺言普及協会
ジャーナリスト石川秀樹(相続指南処、行政書士)
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