外気温35℃と車の表示にはあった。
暑い日になった。
所用を終え、久しぶりに歩いてみたくなった。
木陰が恋しい。
それで静岡市郊外の愛宕霊園の方角をめざした。
近くに小川、というより排水路がある。
コンクリート護岸、かなりの深さ。
でもその上は・・・・、昔から桜並木があり、
この工事をするため大半を伐ってしまったのだが、
その後、若木を植え返して鬱蒼となるまでになっている。
霊園に並行して川沿いをしばらく歩く。
先日亡くなった友のことを思い出していた。
74歳。食道がんだったらしいが難しい部分があったらしく、
正式な診断は医師でも下せなかったそうだ。
しばらく総合病院に通って抗がん剤治療を受けていたもののやめてしまい、自宅療養に代えて数か月、夜、容体が急変した。
思いもかけないあっけない死だった。
葬儀と通夜で夫人は「最期は私ににっこり笑って、主人らしいおしまいでした」と語っていた。
通夜では泣かず、葬儀で涙があふれ出た。
とても仲の良い夫婦だった。
そんな夫の死も、遺族は忙しく見送らざるを得ない。
友人たちにも病気のことは黙っていたから連絡に追われた。
通夜は追い立てられるようにやってきたに違いない。
1日たって、人として送る最後の機会になって夫人は泣いた。
あれから1週間。
歩きながらいつもの思いにとらわれていた。
私には悪い予感があって、家内より長生きする
ような気がしている。それもとても長く。
95歳まで現役でいるような“確信”がある。
妻は3つ年下。もっても90歳が精いっぱいだろう。
私は2年間は、独りで生きなければならない。
とても長い・・・・。
友の夫人は68歳、私より少し年かさだ。
「女性は大丈夫だよ。男と違ってしたたかだから、
ひとりの生活をエンジョイするさ」
そんな無責任な思い込みが日本社会にはある。
なんたる偏見か。
さみしいに、女も男もあるものか。
その心の空洞を思いやるだけで言葉を失う。
空き地ひとつ挟んで霊園が見える。
お墓の向こうに小高い丘。
その向こうは青い空に白い雲だ。以前は
あちら(彼岸)とこちら(此岸)と思っていた。
あの世、死者の側と、こちら、生者の側。
65歳にもなってなんと浅い見方だったかと思う。
私はまだ、本当に愛する人を喪っていない。
だから「あちら」と「こちら」で違和感がなかった。
でも人間は、突然いつも身近にいる人をなくしたら、
「いないこと」に納得なんかできないに違いない。
どうして「あちらの世界に行ってしまった」と思えるだろうか。
あっちとはどこか。
目の前に相棒がいる。
眠っているようにしか思えない。
永遠に起きない。
魂の入れものだった肉体は死んでもまだそこにある。
あるのに魂はもうどこかに消えた?
私は魂なんて信じない。
信じはしないが、なにもないというのは合点がいかない。
ましてや、こちらの世界ではないどこかに飛んで行ってしまったなんて、信じられない。
大切な人をうしなった人は、いつまでも存在を感じ続けるだろう。
向こうもこちらもない。
手は届かず、触れることはできなくても、
「いる」と感じ続ける方が自然なのではないか。
絶対的な存在を私は少しも信じたことがない。
でもその依怙地、この頃少し変わってきたように思う。
それが歳をとったということなのだろうか?
そうなら、歳をとるというのも悪くはない・・・・。
<ジャーナリスト石川秀樹(相続指南処、行政書士)>
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