「老いの小文(こぶみ)」などというテーマで書いているが、
65歳の私は「老い」なぞまったく意識していない。
先日、61歳の時に書いたブログを読んで笑ってしまった。
まことに意気盛んである。
恥かしいくらいに“青白い炎”をメラメラと燃え立たせているのだ。
あれから4年。歳(とし)なりに少しは変わっただろうか?
あまり・・・・・・。
年年歳歳、人は変わっていかなければウソなのだが、
どうにも「歳をとる」ということには慣れないようだ。
■2011年6月のブログから
<『若さ』とは>
クルマに慎重になった。
階段でズッコケそうになるし、
視力も半年ごとにメガネを換えたくなるほど落ちている。
と、愚痴ってみたが、実は本人、そんなに気にしていない。
家の体重計で測ると、僕の体内年齢は61歳にして「36歳」である。
根拠のある数字なのかどうか、多少疑いながら、
それでも、大いに気をよくしている。
そもそも「若さ」をブログのテーマにするなんて、
「歳(とし)を意識している証拠だ」と言われそうだが、
僕の感覚はちょっと違う。
「61歳」という自分の歳を、僕はつかみかねている。
それなのに周りは、あるいは「世間一般は」と言ってもいいと思うが、
「年齢」という物差しを平気で使い、その常識の中で人をとらえている。
だから「その歳で挑戦するなんて、エライですね!」などと言うし、
その言葉に対して、僕は強い違和感を覚えるのだ。
以前、ツイッターのプロフィールに次のようなことを書いた。
とある地方紙の元編集局長。
好きな人=家内と菅野美穂。
目標=まちの法律家になる。
夜は受験勉強。
もうひとつの山(ピーク)に登りたい。
今から思えば、気負っていたなぁと思う。
でも当時は、『今に見ておれ…』という気持ちがあり、それをストレートに出した。
とは言え、何か欲望ギラギラで、いかにも「イヤな奴」なプロフィールだった(と思う)。
ところがこのプロフ、けっこう受けがよかった。
「好きな人=家内と菅野美穂」が若干、印象をやわらげてくれたのかもしれない。
問題は「もう一つの山に登りたい」というフレーズ。
これへの支持が予想外に高かった。
しかも「エライ!」とまで言ってくれる。
「エライ」理由は「その歳で挑戦している」ということらしい。
でも正直いって、僕はすごく気恥ずかしい。
「この山」は自分の想像以上に高く、険しかった。
もともと司法書士を目指したのだが、懸命の勉強にもかかわらず、
1年、2年で資格を取るのは無理と判断せざるを得なかった。
そこで、「行政書士」に目標を変え、昨年11月に受験したが、実らなかった。
その結果、今も勤めを続けつつ、夜は受験勉強の日々とあいなっているわけだ。
※結局2年目の2012年1月に行政書士試験に合格し、その年8月から開業した。
挑戦したが、結果が悪かったから恥ずかしい訳ではない。
結果も見定めないうちにほめられ、その気になっていた自分が恥ずかしいのだ。
歳が歳だから「挑戦するだけでもエライ!」というのは、違うと思う。
20代、30代の青年のチャレンジであったなら、誰も「スゴイ!」とは言わない。
それが60代の挑戦なら、なぜエライことになるのか。
錯覚、刷り込み、「この年齢ならこうなる」という勝手な思い込み。
それに対して、国家試験に「年齢によるハンディ」などという制度はない。
気持ちがいいほど公平だ。
だからこそ、やりがいがあると言うものだ。
長々と書いたが、
健康で体力が普通に残っている「60ウン歳」には、僕みたいな人がいくらでもいる。
いい加減に、ひとを年齢で区切る発想はあらためてほしい。
先日、フランク・アンネのことを研究しておられる浜祥子さんにお会いした。
朗読会のゲストであったのだが、
あいさつの冒頭、原発事故に触れ、怒りを込めて政策の不合理を訴えた。
僕より若干年上とお見受けしたが、若い!!
姿かたちもそうだが、真剣に不条理に対して怒る姿が、とてもすがすがしい。
それに比べて『自分は未熟だなぁ』とつくづく思う。
しかし、待てよ、未熟なのは今に限ったことではない。
いつでも「発展途上」だった。
70になっても80になっても、僕はこんなことを考え、反省しているに違いない。
そして友とは、「90歳までは現役だな」などとほざいている。
中学以来、僕らはちっとも成長なんかしていないのである。
□ ■ □
■あきらめなければ老いることができない!
いや、まったく・・・・、この気分は今も変わらない。
今が幸いなことに健康だから、ということはあるだろう。
しかしこんなことを書くのは“健康誇り”をしたいためではない。
そうではないのだ!
多かれ少なかれ年齢に対するこのギャップ(違和感)は、
かなり多くの人がお持ちなのではないだろうか。
だから高齢者と見ると、子どもにするのと同じように膝を曲げ、
目線を低くしてやさしく語りかけるような態度、本人は悪意がないし
むしろその人のホスピタリティーが行わせていることはわかっているが、
僕は『やれやれ・・・・、ばかにするないッ!』と思ってしまう。
年寄りは自分のことを年寄りだと思っていない。
それは、若さに焦がれるからそうなのではない。
人は自分を曲げなければ、あきらめなければ、老いることができない。
心がいまだ成熟していないのに、老いた気分にはなれない。
私が異常ではない証拠に、多くの人がうなずいてくれるのではないか。
<ジャーナリスト石川秀樹(相続指南処、行政書士)>
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