歳をとってから遺言を書くのはどうしたものだろう。
「リア王」になって書いた遺言は、たぶん人を幸せにしない。
これから地域FMで遺言の話をするので「危急時の遺言」について考えていた。
死期がさし迫っている時の遺言のこと。
今わの際の遺言を想像されると思うが、少し違う。
「危急時の遺言」には3人の証人が求められる。
家族(推定相続人)は遺言の利害関係者なので証人にはなれない。
だから、テレビドラマなどによくある場面、最期に言い残す言葉はこの場合の“遺言”には当たらない。当たらないということは「法的効力」はない。
(言葉の重みがないということではないですよ、念のため)
遺言書には、欠かすことができない条件がある。
- 本人に意思能力があること
- 本人のものであること(偽造、変造ではない)
- そして、本人の署名押印
まあ、当たり前と言えば当たり前。
署名がなければ話にならない。
とは言うものの、人が遺言したくなるのは危急存亡の秋、命の危険を感じ、ロウソクの炎いよいよ消えかけるか・・・・と思わなければ本気で“あとのこと”を考えはしない、というのも事実でしょう。
ところがそうなると署名どころではない。
危篤なのだからペンも持てない。
法律というのはよく考えられていて、そんな場面をちゃんと想定している。
それが「危急時の遺言」。
3人の証人が必要だが、本人の署名はいらない。
ハンコも不要だ。
本人が承認の1人に口伝えしそれを筆記させ、書いた文面を本人と証人たちが確認する。
そして証人3人が署名押印すれば「遺言書」が成立する。
こうした遺言の例を家庭裁判所に問い合わせすると「年に2、3件はあります」と言う。
なるほど、あるんだ。
それはあるに違いないと思う。
身体は病にむしばまれていても、脳は動いている、夢も見る。
いろんな想念が浮かぶ中、『これだけは』と言っておきたいことがどんどん膨らんでくることは大いにありそうだ。
そんなわけで「危急時の遺言」は有用そうである。
しかし、説明の文章を書きながら私には別の考えが浮かんできた。
もっと早くから書いておけばいいのに、などという野暮な発想ではない。
ぜんぜん別のこと。
人間は変わる、ということなのだ。
遺言書は遺言者の最後の意思だといわれる。
「最後の意思」だから、遺言書が2通出てくれば日付の新しい方が「有効」とされる。
古い意思がまったく無効とされるわけではないけれど、書き換えた「新しい意思」の部分は当然、尊重される。
でも、それはもめごとのタネを残す結果になりがちだ。
私は自分自身の体験から、性格は変わると思っている。
人生の山や谷を越えて人格が丸くなるならいいのだけれど、不徳の私はなにやらイライラ、怒りっぽくなったようだ。
まだ「老い」も「衰え」も感じていない今でさえ、そんな感じである。
自分はいつか、リア王になるのではないか・・・・。
ガンコで頑迷、気難しくなり、周囲に怒りをまき散らす。
自分だけが正しくて、周りの人や物事はみんな間違っている。
今はまだそれほど疑り深くなってはいないが、そのうち「俺の周りには黒い頭のネズミたちがいる」などと言い出すかもしれない。
もちろん認知症になったら遺言書は書けない。
書いたとしても「意思能力」が大いに問題とされるだろう。
だが言いたいのはそのことではない。
ふつうに老いていっても、「今の私」は「10年後、20年後の私」とは違うということなのである。
そして「10年後、20年後の私」が今の私より優れた人格者であるなどということは、とうてい信じられない。
今より冷静で、公平な判断ができるだろうか、偏った思いにとらわれていないだろうか。
そのとき書く遺言は「不公平で偏った遺言」になりはしないか。
遺言書の力はすごく大きい。
ただの法律文書としても絶大だが、家族に遺す最後の言葉としてもとてつもない大きな意味を残しそうだ。
「リア王」は老いていく自分の怒りを制御できなかった。
できるのは達人であろう。
達人になれる人は多くない。
誰もが幸せになれる遺言書を今のあなたなら書ける。
「リア王」になる前に遺言書を書いてください―――。
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<ジャーナリスト石川秀樹(相続指南処、行政書士)>
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