facebook趣味が高じて、以前はSNSを中心としたもう一つのブログを書いていた。
そのブログをきょう整理していて、興味深い記事を見つけた。
2014年5月31日の記事だから、もう3年前になる。
facebookの友達がお母さんの介護をしていた。
その述懐に私が反応し、自分の死生観を述べている。
私の原点がここにあったのだが、私はずいぶん変わった……。
こんな話だ。
記事の目次
■母親の介護に疲れ果てるfacebookの友
けさ、Facebookの友人の書き込みを読んで考えた。
<さすがに介護は疲れます。
朝昼晩の食事、薬を飲ませること、、、、いっぱいあって。
親子って難しい関係だとしみじみ思います。>そして言うのである。
<「生んでくれてありがとう」というコピーをよく見かけますが、
生もうとして生んだのか、たまたま生まれたのか・・・・・・>
さすがに「書きすぎた」と感じたらしく、
「冗談半分ですから」と語尾を濁したが。
■身につまされる「介護」に伴うリスク
彼は私よりも年長だから“老老介護”の状態に入っている。
重労働であることが想像できる。
それで、こんなコメントを返した。
<Aさん、痛切によく理解できます。
うちは母は寝たきりで意識なく老人病院に入っています。
父のボケは進み、毎度失禁する状態。
いずれ間違いなく両親の頭から私の記憶は消えていきます。
たぶん父の最後に残る私の記憶は「恨み」でしかないでしょう。
長生きは罪、これが今の私の実感です。>
両親が罪だ、と言っているのではない。
長命社会が善、100歳長寿を「おめでとうございます」といっている社会が、
本当に善なのか、100%幸せなのか?と言いたいだけである。
母はすでに私の記憶をなくしている。
食事はしない。
鼻からチューブを胃にまで届かせ、直接、栄養補給している。
そういう状態で、まだ何年も生きるだろう。
父は「足が動かない」「字が小さくなっちゃう」と言いながら、
なお自転車をこぎ「あと10年は生きたい」といっている。
しかしボケは確実に進行しており、失禁は日常だ。
家族にも限度があって、小言を言うのは私。
本人は“被害者”だと思っているので、恨みをためていくばかり。
年寄りの頑固さなのか、生来の意地悪なのか。
素直に聞くことはなく、ねじれた感情は私の妻にも向けられる。
長く生きるということは、こういう状態になる、ということでもある。
認知症により、感情の歯止めが失われるのだろう。
■自分ならどうするか、「麻生発言」を思い出す
人間の晩年、一定の確率で間違いなくこのような状態になる。
それは避けられないこと。
だとしたら、今度は、自分はどうするか、だ。
いずれ行く道がわかっているのだから、健全な選択をしたい。
正気の選択をしたいのだ。
結論は決めてある。
延命治療は拒否する。
だがそれを説明する前に、昨年の「麻生発言」に少し触れておきたい。
元首相、失言癖で最高位を棒に振った人だが、直感鋭い人でもある。
こういう発言だ。
<いいかげん死にたいと思っても『生きられますから』なんて生かされたんじゃあ、かなわない。
しかも政府の金で(高額医療を)やってもらっていると思うとますます寝覚めが悪い。
さっさと死ねるようにしてもらわないと。
(引用は「共同通信」から)>
この時も、マスメディアからは袋叩きに遭った。
昨年の1月21日、政府の社会保障制度改革国民会議で、
余命わずかな高齢者の高額医療について聞かれてこう答えた。
本音であり、正論ではないか。
胃瘻(いろう)という処置は本来、延命のための方法ではなく、
「回復」を前提とした、つなぎの栄養補給法である。
これを高齢者に長く施した場合、命はつながれるが体はエビのように曲がる。
母は胃瘻ではないが、鼻からの補給でほぼ同様の効果を得ている。
見舞うたび「ほんとうにこれを望んでいた?」と聞きたくなる。
■「延命治療拒否」の意思をどう担保させるか
若いころは、死ぬのはイヤだ、と思っていた。
今もその思いはある。
しかし今なら、それが”幼稚な感情”であることがわかる。
永遠に生きていたいなどと思うのは、業(ごう)であろう。
だから、延命治療は拒否したい。
措置をして、回復し、書いたり考えたりする能力が取り戻せるなら、
その見込みがある治療なら、感謝して受け入れる。
しかし、生きているだけなら治療は不要である。
現実問題として、生死の境目の治療はいくらでもあるだろう。
救急治療の場合、医師は生存に向けて全力を尽くす。
それは人として当然だ。
だが、ここで問題にしていることはそのことではない。
緊急時の選択ではなく、回復期、安定期の問題である。
助かっても、本人の意思がもはや定かでなくなった時、どうするか。
麻生さんじゃないが「さっさと死なせてくれるのか」という問題。
延命治療があることを説明して、家族に「どうしますか?」と問えば、
十中八、九は「お願いします」と言うに決まっている。
だからこの時、私は自分の意思を残しておきたい。
■「遺書」では生前のことに間に合わない
麻生さんはこんな発言をしている。
<私は少なくとも遺書を書いて、そういうことをしてもらう必要はない、
さっさと死ぬからと書いて渡しているが、
そういうことができないと死ねません。>
残念ながら、麻生さんは間違っている。
「遺書」として書いたのなら、本人が死ぬまで開封できない。
一方、ただの書付では法律の根拠としては乏しい。
それを見て医師が「はい、そうですか」と言うとは思えない。
そこで考えているのが「公正証書」として遺す、という方法だ。
民間団体の「終末期宣言書」や「医療・ケアについての意思表明書」
などもあるようだが、(家族に対する)強制力の点で心もとない。
※家族の抵抗感(後ろめたい感情)を「法」を楯にして説得するということ。
公正証書は公証役場に行って公証人に意思を筆記してもらう。
証人2人の同席が必要だが、友人で十分。
費用は自分で手続きをするなら1万円台で済むはずだ。
日本の場合、終末期医療についての法整備が進んでいないので、
最期の意思が医師と家族にゆだねられてしまう。
書き続けられるなら(それだけ意識清明なら)病院でも生き続けたい。
意思表明さえできないなら、チューブは不要である。
そうは言っても「リビングウィル」を公正証書にすることは、
一般の人には難しいかもしれない。
法律に「意思」を邪魔立てされないよう手を打つ必要がある。
行政書士の端くれとして、理論武装をしておかなければ、と思う。
仲間を募って、さっそく研究していくつもりだ。
■「延命拒否」と言ってきた私
「ここに原点があった」と書いたのは、誰よりも声高に私は”延命拒否”をいってきたのだなぁ、と思ったのである。
父が倒れ闘病生活に入るずっと前。
母は運命に従順というか、あらがうこともなく老いの不調に身を委ね、ほとんど予測通りの経過をたどって寝たきりになった。
そして経管栄養を施され、意識はないまま長く生かされ続けている。
病院に入ってしまうと、facebookの友が悩むような介護による物理的な労苦からは解放され、なんだか客観的に物事を見るようになってしまった。
この頃感じていたのは「理屈」である。
意識ないまま長く生かされ続けている母の生命(いのち)はもう終わっているのではないか、という覚めた感想だ。
母のことを想うより、私は自分の「延命拒否」の論理にばかり関心が向いていた。
ただただ、頭でっかちだった。
父が倒れた。
脳梗塞だった。
崩れ落ちる瞬間を見ている。
ブログでは認知症のように書いたが、この1年半、前よりも密に父に接していると『あれはただの老化だったんだ』と気づく。
ボケているどころではない。
以前の100分の2、3程度の身体能力となっても、父はあきらめない。
「帰りたい」とは言わず、「もう、いい」とも言わない。
命の限りについて尋ねないし、あきらめた風もない。
■潔くなど、死にはしない
年寄りだから私が「老醜」と感じた父のエピソードはいくつもある。
そのたびに私はカリカリして「往生際が悪い」だの、「観念しろ」などと言ってきた。
父は特に腹を立てるでもなく「そんな気はまだしない」と、あえて命の終わり方に言及する私のギスギスした感情をやり過ごすのだった。
結局、私がずっといってきた「延命拒否」などという観念は消し飛んだ。
元気なうちに言っていること、自分の命を自分が左右しようなどというごう慢は、今は絵空事に思える。
かたや、命を使い切ろうとしている父親と、こなた、今から自分の最期に脅えて先回りをし、「これこれこのように」と指図が通るかのように夢想している私とでは、リアリティーがまるで違う。
終わり方の研究より、命の使い切り方を考えた方が前向きだ。
『母のようになりたくない』という思いは今もあるが、出たとこ勝負で命をあきらめない父親の存在もまた私の半身だ。
母も父も、強じんに生きている。
血の源流が両親からである限り、私もまた「潔く」など死にはしない。
どう使い切るか、生き方を考えた方が私らしいのかもしれない。
◎「延命」についての考察記事
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ジャーナリスト石川秀樹(相続指南処、行政書士)
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