先日書いたブログ記事をFacebookに紹介しようとしたところ、かなりの長文になってしまった。
「延命のための延命は拒否」という言葉に反応して、「それは違うでしょ!」と声を荒げたような記事だった。
■「75歳になったら」命を値切る⁉
この記事を書いたのは5月5日。
原文はコチラ⇒
★「延命のための延命は拒否」でいいですか⁉ 最期の医療めぐるおかしな“空気”
家族に起きたある事件が、私の従来からの「延命」に対する意見を180度変えさせた。
そんな折しも、朝日新聞にこんな記事が載った。
「75歳以上は、透析や胃ろうなどの延命措置は原則として施さず、希望する場合は全額自己負担とすべきだ」
───2016年4月30日、朝日朝刊「フォーラム」面で100歳老人の馬詰さんという人の発言を紹介した。
いささか乱暴だなぁ、と思った。
100歳老人だから馬詰さんは「老人の代表」なのだろうか。
異質な意見だと思う。
無用な延命は止めたい、と考える私でもこういう発想は持たない。
病は、その症状、生命に対する危険度、患者本人の病への立ち向かい方など、1例1例個別的であり、“格別”である。
それを一律、「75歳になったら命を値切る」ような施策は、乱暴すぎる。
■「命の限りは自分で決める」は錯覚だ
父90歳、書家。脳梗塞にひどくやられ右半身マヒ、嚥下障害が出て鼻からチューブの経管栄養法で何とか命を取り留めている───そんな父の”再生劇”を私はこの半年間、見続けてきた。

自力摂食ができるようになり、父はもう鼻からチューブを入れていない
そもそも「延命のための延命」なんてあるのか。
言葉だけ浮わついているように感じる。
とてもうのみにできないが、この頃、多くの人がうのみにして「うなずいて」しまっているように見える。
「延命のための延命」なんて、健全な医療現場にはないだろう!
どれも「理由があっての延命」のはずだ。
それと、もうひとつ。
これは私自身が陥っていた”罠(わな)”と言うのか、錯覚というべきか───
「延命拒否」という言葉には、自分の命の限りを自分で決める、自分なら決められる、決められるのが理性的で合理的な人間、という思い込みがあるような気がする。
しかし、私はいま、宗旨を変えた。
この数か月、父の闘病を見て、
「”私なら決められる”ということはないな」と思い始めた。
決めていたところで、病との立ち向かい方ひとつで希望したり絶望したり、結果に一喜一憂しながら「命」に対する姿勢もめまぐるしく変わりそうだ。
元気だったころに思っていた「無用な延命は拒否したい」なんて思いは、病んだ当事者になったら、怖くて言い出せないだろう。
■頭で考えた「論」は通用しない
それに重篤な病に冒されたということは、「自分で選択せよ」と言われたところで、「選択」を冷静に判断できるような意識状態ではないということだろうし、たとえ意識が清明であったとしても、ふつうの人間が「ではこうしてください」と言えるほど、病の状態の把握にたけているとも思えない。
病のことはプロの判断にお任せするしかない。
患者(や家族)に「どうしますか?」と聞くのは、医療者側のエクスキューズ。
<あなたが決めたんですからね>と言っているだけのことだ。
実際の現場は、”やわな延命拒否”意識など消し飛んでしまうような“戦場”であり、かつ戦場が日常になっている医療・看護・介護スタッフの意識はドライでタフだ。
「頭でしか考えていない論」がまかり通るような世界ではない。
それなのに新聞紙上では、こんなピント外れな「思い」が語られ、それに大いに引きずられて「私、延命のための延命は、拒否」などという空気が広がっていく。
本気で、心底そう思えるかどうか、もっと医療や看護、介護現場のことを知ってから自分の「思い」を定めてほしい。
命の問題に“空想”は無用だ!
<初出:2016年6月5日>
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ジャーナリスト石川秀樹(相続指南処、行政書士)
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